500文字くらいの日記

話も文章も長くなるので短くまとめる訓練をしたい

子供は見つめることの危険性を知らない

子供って人のことをよく見るよなぁ。

低学年くらいまでの子供は、ほんとうによく人を見ている。

この時の「見ている」は、「観察し読み取っている」とかじゃなくて、ただの「見ている」。


成長すると、「見る」という行為は

「それ以上近づかないでください」の牽制だったり、

「心配しています」に意味が変容する。

電車内でちょっと肩が当たればチラッとそっちを見て牽制し、

道端で困っていそうな人がいたら、助けが必要ならすぐに声を掛けられるように見ている。

見るという行為はそれだけでメッセージになる。もちろん見ないという行為も。


子供は人を見ることが相手への意志の表明であることを知らない。

自分の存在が、見ている対象から認識されていることに気付かず、自分は安全圏にいると信じて疑わず、じっと見る。


今日えっちらおっちら門扉を開けていたら4歳くらいの子供に見つめられていて、「手伝ってくれないなら見ないでくれ…」と思った。

ああいうのってやっぱり自分がじろじろ見られて気まずい思いをして矯正されていくものなんでしょうかね。

配偶者の愚痴を娘に言い合うタイプの親

小野ほりでいさんのnote「母を悪くいう父、父を悪くいう母」を読んだ。

普段noteを購入することはないが、タイトルに心当たりがありすぎた。小野ほりでい言語化してもらえるなら100円はぜんぜん安い。

 

わたしは父親に溺愛されて育った。

父はちゃらんぽらんで気分屋で理不尽に怒り出すことが頻繁にあった。

 

母は、父に何か不満があれば「あんたがお父さんに言って。お母さんが言っても聞かないんやから。」と私を仲介者として扱っていた。

その時は「娘の言うことばかり聞く夫への不満」もセットだ。

 

父親に露骨に優遇されていることに気付いてはいるが、それがひいきと言う言葉で表わされるとか、あまり家庭内ではよくない類の事柄だとかを知らなかった幼稚園児は、そこで「父親が私だけを特別扱いするのは悪いこと」という認識をし、同時に、

自分は母親を怒らせ悲しませる悪いことをしている、というとてつもない罪悪感を覚える。

わたしが父にひいきされていると少しでも感じるとその母の発言を思い出すようになり、その罪悪感は根強くなっていく。

兄たちも、同じことをしても自分たちは殴られ蹴られるのに妹は見逃されているのが面白くなく、「妹ばっかりひいきされてずるい」とたまにわたしにつらく当たるときもあった。当然のことだろう。

父には溺愛されるが母にはどうも憎まれているようだ、兄たちもあまり遊んでくれなくなったし(これは年齢もあったと思う)、ということをぼんやりした脳で感じ始める。「わたしがいなかったら家族は上手くいっていたんだろうな」とぼんやり思い、あーなんか生まれてこない方が良かったのかも、というぼんやりとした感情は罪悪感と共にずっと根を張ることになる。

 

父への不満が日々積もり積もった母も機嫌が不安定になり、そうした母への不満を父は私に言うようになる。

まじで「母を悪くいう父、父を悪くいう母」状態だった。

その時にはどちらのこともぼんやり嫌いになっていて、高校生の時は早く家を出たくて怒りで気が狂いそうになっていた。

 

あったなあ、配偶者の愚痴を子供に言う親…。

ほかにも父がパチンコをしていたり母がマルチ商法新興宗教にハマったり、わたしに直接は関係ないことで家庭内はまあまあ大変だったな、と社会人になってやっと気づいた。

大学にも行かせてもらったし、母はずっとご飯を手作りしてくれたし、いまさら被害者ぶるつもりはないが、まあ、ここでくらいは不満を言わせてほしい。

 

「自分の自我の半分にあたる親が攻撃されることは、ちょうど自分の半分が攻撃されていることを意味する。」

というこのnoteでの文章は幼稚園児の時に感じたあの痛みの理由がわかった気がした。

駅前で大演説をされて被害者ぶるな

駅前で募金を募っている人がいる。


今日久しぶりに電車に乗ったら、駅の正面で朗々と演説をしている若い男の子がいた。

大学生くらいだろうか。よくあるひととおりの募金活動とはちがい、選挙演説と同じくらいの熱意で「犬ちゃんや猫ちゃん」のために募金を、と空中に向かって情感たっぷりに叫んでいた。

その一生懸命な姿に大量の感情が頭を去来した。


そこまで熱心に語ると逆に通行人に引かれてるでしょ、という冷笑から、

こんなに心を込めて何かに尽くしたいという気持ちがあるというその一点だけで、わたしより彼は素晴らしい人間だ、とか、

傍に犬を置いて同情を買うことへのなんとなしの疑問や、

動物はかわいいが自分に明らかなリターンの無いものにお金を出したくないという、あさましさ。


本当に犬ちゃんや猫ちゃんを救うには、平日の昼間に募金活動をすることが必要なのか?

その時間を別のことにあてるとか、クラウドファンディングするとか、そういうのじゃダメなのか?


ダメなんだろうな。

自分には想像力が無いので、彼やその団体がその行動に至った理由が分からない。

分からないのに、その演説に特に耳を傾けることもしない。もしかしたら藁にもすがる思いかもしれないのに。


純粋でまっすぐな若者を見て己の薄汚さを知り、罪悪感を覚え、自分が悪人であるという認識に耐えられないとき、

人は「あれは詐欺だ」という解決策を無意識に捻り出す。

自分が悪いのではない。

あいつは人を騙しているから、あいつが悪い。

あいつを目にしたことによって覚えた罪悪感や皮肉的な考えは、あいつのせいだ。

そう思うことで自分を守ろうとする。


その若者が詐欺であろうとなかろうと、同じことを思ったのにね。


若者の前を通り過ぎ、ミスドでドーナツを選びながらそういうことを考えていた。



調べたらなんか普通に詐欺らしいです。

手作りの話

最近手芸をしていない。

5年くらい前は、心がとてもつらい時期だった。

手を動かして何かしらの成果物を生み出すと気持ちが楽になるらしいと聞き、幼稚園のように季節の飾りを折り紙やらフェルトやらで作っていた。

夜中に思い立って、ひたすらちまちまと作業をして、完成する頃にはもう夜が明けていて、そしてちゃんと心が軽くなっていた。

七夕、ハロウィン、クリスマスなどの飾りを、たぶん3年くらい作り続けたと思う。

当時まだ彼氏だった夫は、いつもそれをすごいすごい、美術館に寄付できるよ、などとほめたたえてくれた。本当にありがたいことだ。

 

もう2年くらい作っていない。

今はもう一日中コンテンツに溺れても頭の中で声が響かなくなった。

当時のわたしには、無心で手を動かすことがすごく必要な事だったのだと、真っ白な壁を見て思い出した。

ニーチェの愛のフィルター

快活な友人のことをよく考える。

多少の困難は「そういうもの」とやんわり受け止めて、ずんずんと目的を果たしていく力強さがあって、すごく好きだ。

その友人が妊娠したと聞いて、母親になるにはやはりこういう人間がふさわしいな、と深く深く、みぞおちのあたりで納得した。

 

自分の思う理想の母親とは?と自問すると、やはり「相手のありのままを喜ぶさま」だと思う。ニーチェが、あの、恋愛においてあまりうまくいっていなかったとされているニーチェが、愛について語るときに、そう表現していた。

初めて読んだ時は「ハァ…?でもなんかいい言葉だな」と思い、それからずっと、壁に貼ったままのカレンダーみたいに、「あるな」という感じがしていた。

最近はその言葉がぐっと身に染みるようになってきた。

あまりよくない感情が浮かんでくるときにはぐっとそのニーチェフィルターに通して、そうするとたいがいフィルターに引っかかる。

おお、こんなにも自分の思うとおりに動かそうというきもちが、あったんだな…と痛い気持ちになる。

 

こういう行動を認知行動療法という。

夫の急病の話

前回書いたのはいつだったか。

この世の中、外に出ることもないので何も起こらず、書くことないな…と思っていたが、いや書くことが無いことなんてないはずよ、いう気持ちもあり、そうしているうちに書くような出来事があった。


ある日起きたら、夫が布団の上に座ったままかすれた声で「お腹が痛い」と言ってきた。


すわ大事件である。

わたしの夫は痛み耐性がとてつもなく、でかい怪我をしても全然痛がらないし、庇う動きもしない。

そんな夫が身動きも取れない程に痛がっているのだ。

それはもう腹を壊したとかいうレベルではないはずで、救急車を呼ぶかと聞くもそれは嫌だという。

いるんだよなあ、こういう正常バイアスのかかった頑固じじい、夫がそういうタイプなのを忘れていた。


近所の救急病院に電話すると今から来ていいですよとのことで、歩いて5分のところまで2人でいく。タクシーは拒否。頑固じじいめ。

その時はわたしが気をつけてゆっくり歩いても前に出てしまうくらいに夫の歩みは遅く、もうお腹の中で何かしらの腫瘍でも爆発しているのではと気が気でなかった。

MRIでも撮って、ここに影がありますので今から手術します、あと1時間遅かったら危なかったです、と言われたらどうする、こんなことなら医療保険に入っておくべきだった、と喋りながら病院へ向かう。

なんとなく、心配しているのだという気持ちを表明した方が夫が安心するのではないかと思った。

自分の体調の悪さを他人に軽く見積もられた時、人は恐怖心と苛立ちを覚えるからな。


病院の中までは付いていけないので、建物の中に入って受付をしたのを見届けて帰宅する。

帰りながら、しかしなんであんなに不安げなことを言ってしまったのかと後悔した。

もしこれでガンとかだったりしたら、夫は私を不安にさせまいと黙っているのではないか。

もっと泰然自若と構えていなければ、と思った。


結局原因は分からず、胃の薬と痛み止めだけ貰って帰ってきた。

話を聞くと、焼けるような胃の痛みだったらしいので、たぶん胃痙攣だったんじゃないか。

あれめちゃめちゃ痛いよね、戻したりしてほんとにしんどくて、わたしは中学の時に泣いちゃったもんね。

「鬼滅の刃」の説得力

昨日から「鬼滅の刃」をみている。

前情報のハードルが高すぎて、これが楽しめなかったらわたしの人生における娯楽の可能性が狭まりそうで避けていた。


実際には、まー面白かった。

まずアクションアニメで凄く動きが多いのに超美麗映像。

そして、おそらく原作準拠であろう独特の輪郭線や、様々な画風の融合に見事に成功している。

最初の4話くらいまでは「こんな作画…人が何人か死んでるんじゃないか…!?」とソワソワしていた。

魂のこもった仕事に感動しました。


あとは、主人公ご都合主義が出だしの頃はかなり抑えられていて、個人的にかなりポイントが高かった。

初めに妹を守るためにのちのち味方になる人を説得しないといけないシーンがあるんだけど、品行方正、心根の優しい主人公、言葉を尽くしてなりふり構わず頼み込む。

でも全然ダメ。普通に妹は殺されそうになる。

ではどうしたかと言うと、あの優等生な主人公が、暴力で以てその人から妹を取り返そうとするんです。

この説得力。すごく良かった。

その決意や戦闘センスなどによって相手は状況を受け入れ、妹の奪還に成功する。

よくありがちな、熱をこめて頼み込んだら頑固じじいが「その目は本気だな…」とか言って心動かされ協力してくれました、みたいなやわっちい話は好きではないので。

人間の判断と決意を動かすには、気持ちとかじゃなく、圧倒的実践と才能がないとダメなんだよな。


まあアニメ後半になると主人公ご都合主義も出てくるけど、その頃にはみんな主人公のことを応援しているので全然大丈夫。

導入部でいかに離脱者を出さないか、というのは凄く大事なんだな。